ロベール・ミュシャンブレッド『近代人の誕生 フランス民衆社会と習俗の文明化』(石井洋二郎訳、筑摩書房)参照  ところで当時のプロテスタントは、ルター派以外に、ブーツァーたちストラスブルク派、チューリヒZürichで宗教改革(一五二三~三一年)を始めたツヴィングリZwingl(一四八四~一五三一)の後継者たち、 そして第四グループとしてドイツ農民戦争(一五二四~二五年)を起こしたトマス・ミュンツァーThomas Müntzer(一四八九~一五二五)の後継者や再洗礼派のように「聖霊」を強調する派閥に分かれていた。そしてルター派は第四グループの存在を全く認めなかったが、ストラスブルク派やカルヴァンは彼等を切り捨てようとはしなかった。カルヴァンは神の御言葉と結びつかない聖霊の働きはないとして、 聖霊だけを強調して重視することを批判したが、 第四グループを全否定することはなかったのである。彼のこうした態度は第四グループの人々に受け容れられ、その聖霊論はカルヴァン神学の中で重要な位置を占めるようになっていく。, (五)ジュネーヴにおける改革(2)  しかし、 ファレルはついていた。カルヴァンがジュネーヴの町にやってきたからである。ファレルは早速、カルヴァンを訪ね、改革への手助けを懇願した。そしてファレルの熱意に感動したカルヴァンは、自らの予定を破棄して協力を約束したのである。バーゼルでの事務手続きを済ませたカルヴァンがジュネーヴで活動を開始するのは八月に入ってからで、彼の仕事はサン=ピエール教会La cathedrale protestante Saint-Pierre de Genèveの聖書講師であった。やがて一〇月になり、カルヴァンは新旧両派が激論を交わしていたローザンヌ会議Lausanneにファレルの随員として出席している。会議はファレル側が不利であったが、やがてカルヴァンの登場で新教徒側の勝利となり、ローザンヌも宗教改革に取り組むことを決意した。  エドワード六世Edward VI(在位一五四七~五三)がわずか九歳の幼さで王位に就いた一五四七年、サマセット公エドワード・シーモアEdward Seymour, 1st Duke of Somersetは王室の実権を掌握したが、その間、一五四九年と一五五二年の二度にわたって祈禱書が作成され、イングランド国教会の脱カトリック化が進んだ。しかし、一五五二年始めにはエドワード・シーモアが王権壟断と反逆の科で処刑され、次いでノーサンバランド公ジョン・ダドリーJohn Dudley, 1st Duke of Northumberlandが実権を奪った。やがて病弱な国王の死期が近いと察知したノーサンバランド公は、自分の六男ギルフォードをエドワード六世の従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイJane Greyと結婚させて彼女を次の国王に据えようと画策した。死の床にあったエドワード六世は、結局それを了承して七月六日に亡くなった(享年一五歳)。ノーサンバランド公は王位継承権者メアリの身柄を拘束しようとしたが、身の危険を察知したメアリはノーフォーク公トーマス・ハワードThomas Howard, 3rd Duke of Norfolkに匿われロンドンを脱出する。七月一〇日にはジェーンがロンドン塔に入城して王位継承を宣言したが(ジェーン女王〔在位一五五三年七月一〇~一九日])、一方のメアリも一三日にイングランド東部のノリッチNorwichで即位を宣言した。やがて多くの支持者がメアリのもとに集結し、ノーサンバランド公の軍隊を撃破した。こうしてロンドンに呼び戻されたメアリは改めて「正統」の女王メアリ一世Mary I (在位一五五三~五八)の即位を宣言し、ノーサンバランド公とその子ギルフォード、そしてジェーン・グレイをいずれも反逆罪で斬首刑に処した。 (Not displayed with comment. Sensibilités, moeurs et comportements collectifs sous l'Ancien Régime, Fayard 1988. 註③ エラスムスについては、沓掛良彦『エラスムス』(岩波現代全書)二〇~七二頁を参照のこと。 註⑨ 四五一年、マルキアヌス帝が召集したカルケドン公会議Concilium Chalcedonense(第四回公会議)は、 神たるイエスだけを認める単性論を異端とするとともに、正統アタナシウス派の説を整えて神とイエスと聖霊との三者を不可分なものとする三位一体説を確立した。公会議の閉会時に朗読されたカルケドン信条は、 「唯一且つ同一の」イエス・キリストは「真の神であり、真の人間」であり、「神性において父と同一本質の者であり、且つまた人性においてわれわれと同一本質の者」であり、「二つの本性において混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、分離されることがない」と宣言している。 註⑫ 一六世紀のフランスでは、学芸や生活習慣におけるイタリア化italianisationという形でルネサンスが進行する。一五一五年、ルネサンス君主の典型と言われるフランソワ一世はボローニャで開催した教皇レオ一〇世との和平会談の際にイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(一四五二~一五一九)を招き、翌年暮れにはアンボワーズ城近くのクルー荘園を与えてその居館(クロ・リュセChâteau du Clos Lucé)に住まわせた。レオナルドは一五一九年五月二日にこの邸宅で亡くなるが、最晩年の二年半ほどはフランソワ一世から年金を受け取り、ミラノ貴族フランチェスコ・メルツィFrancesco Melziらとともに暮らした。田村秀夫『ルネサンス 歴史的風土』(中央大学出版部)一九二~二〇六頁参照。ガリカニスムについては、拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)参照。  しかしその頃、 故郷ノワイヨンでは父親が大変困難な状況にあった。カルヴァンがオルレアン大学に進学した頃から父ジェラールはノワイヨン司教と対立するようになり、やがて教会から破門され、ついにはその破門が解けないまま一五三一年五月二六日に亡くなったのである。晩年の父親はカルヴァンがこれ以上哲学や神学を学ぶことを好まなかったとも言われ、一五三一年ブールジュ大学を卒業して法学得業士の称号を手にしたカルヴァンは、王立教授団に加わって古典文学研究に邁進し、一五三二年四月には『セネカの寛容についての注解』を出版している。, (二)奴隷意志論とカルヴァンの回心  ただし、カルヴァンは政治権力の必要性を認めていたものの、自分自身が神からその務めを命じられたとは受けとめてはいなかったと思われる。彼の政治に対する態度は、次のようなものである。すなわち、 神から政治権力を預かった者はこれを委託した神の意志から逸脱しないように細心の注意を払いながら統治行為を行う必要があり、統治される側の人民は政治の改善を求めても良いが、さまざまな権利を要求することは許されなかった。ただし、カルヴァンは説教者として政治権力を持つ者たちを神の御言葉に信服させただけでなく、教会代表として教会の要望を市政に反映させるよう要求・助言を繰り返したが、直接的な統治行為はとっていない。ルターが政治権力の教会監督権を容認していたのに対して、カルヴァンは神の意志と真理を決定するのはあくまでも教会であるとして、政治権力は教会を助け、教会が求める規律を忠実に実行する義務を持つと考えたのである。  スイス宗教改革に名を残すジャン・カルヴァンJean Calvin(1509~64)は、一五〇九年七月一〇日、北フランスの小さな町ノワイヨンNoyonで生まれた。父ジェラール=コーヴァンは苦労して法律事務所を開設し、美しく信心深い母ジャンヌは若くして亡くなっている。当時のノワイヨンはブルゴーニュ公国État bourguignonの一部とされ、イタリア戦争(一四九四~一五五九年)を最終的に終結させたカトー・カンブレジ条約Traités du Cateau-Cambrésis締結(一五五九年)によってようやくフランス王国に復帰している。さて、コーヴァン家には子どもに大学教育を受けさせる経済的余裕はなかったが、幸い当時は将来教会に仕える者のために学資を提供する「教職禄」という制度が存在した。カルヴァンがこの制度を利用して兄(長男)シャルルの後を追うようにパリに遊学したのは、一四歳の夏のことであった(一五二三年八月)。彼が入学したのは、ラテン語学者・教育者として著名なマチュラン・コルディエMathurin Cordier(一四七九~一五六四)が指導する進歩的なラ・マルシュ学寮(コレージュ=ド=マルシュ)という学校であった。しかし、何故か一年後には保守的な校風で知られるモンテーギュ学寮(コレージュ=ド=モンテーギュ)に転校している。当時、隣国の神聖ローマ帝国内では、ヴィッテンベルク大学のマルティン・ルターMartin Luther(一四八三~一五四六)が「九五カ条の論題」を掲げて贖宥状批判を行ったことにより宗教改革の嵐が吹き荒れていた(一五一七年一〇月三一日)。したがって、フランス国内でも宗教改革の理論に論駁できる人材を養成することが喫緊の課題となっており、カトリック側の急先鋒ノエル・ベディエが学寮長を務めるモンテーギュ学寮がその要請に応えようとしていた。この学寮では、人文主義者ギヨーム・コップの教えを受ける機会に恵まれ、ほぼ同時期の学生としてイグナティウス・ロヨラIgnatius de Loyola(一四九一~一五五六)やフランソワ・ラブレーFrançois Rabelais(一四八三~一五五三  さて、スペイン王家の血を引くメアリ一世は敬虔なカトリック信者であり、彼女が結婚相手として選んだのは従兄の子にあたる西王太子フェリペ(後のフェリペ二世)であった。しかし、フェリペはメアリ一世より一一歳も年下であり、カトリックの宗主国のような国家の王太子であったから、この結婚には反対する者も多かった。だが、一五五四年七月に結婚式が挙行され、フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられた。翌五五年、メアリ一世は父ヘンリ八世以来の宗教改革を覆し、イングランド王国をカトリック世界に復帰させた。彼女はプロテスタントを迫害し、女性や子どもを含む多くの人々を処刑したことから「血まみれのメアリ」Bloody Maryと呼ばれている。一五五六年、夫フェリペはスペイン王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)として即位するために本国に帰国し、一年半後にはロンドンに戻ったものの、わずか三か月後には再びスペインに帰国して二度とメアリと会うことはなかった。メアリ一世は五年余の在位の後、一五五八年一一月一七日、卵巣腫瘍が原因で他界した。 日本だけでなく世界中で同時多発的に起きる「宗教」なき世界。今回は、フランスのカトリック教会にフォーカスを当てます。空っぽの教会と日本をしのぐペースで宗教離れする、現実。「ポスト資本主義社会」の宗教の行方を明示する長期連載、3回目です。  第⒔条 本勅令によって、裁可・承認せられたる場所におけるほかは、・・・いかなる改革派宗教の礼拝も、これをおこなうことを絶対に禁止する。   新国王シャルル九世Charles IX(在位一五六〇~七四)は僅か一〇歳の幼王であり、対立するカトリック(ギーズ家)とユグノー派(ブルボン家)の調停は必然的に摂政カトリーヌの役目となった。彼女は国務会議を主宰して国政をスムーズに展開するためには宗教的融和策が肝要と考えたが、両者の関係改善を図るのは容易ではなかった。一五六一年一月、カトリーヌはユグノー派に対する「オルレアン寛容令」を出したが、猛反発したギーズ公フランソワは国王軍司令官アンヌ・ド・モンモランシAnne de Montmorencyやジャック・ド・サンタンドレJacques d'Albon de Saint-André 等と反動への道を進むことになる(カトリック「三頭政治」 triumviratの結成)。そして同年九月にはサン・ジェルマン・アン・レー三部会Saint-Germain-en-Layeの中でテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeを含む一二名の新教徒牧師をポワシーPoissyに招いてカトリック聖職者との会談を主宰したが、一〇月の最終会談で新旧両派は完全に決裂してしまった。それでもカトリーヌは、一五六〇年、六一年と連続して全国三部会を開き、国務会議に高等法院のメンバーを加えた拡大国務会議の討議を経て、翌六二年一月、「サン・ジェルマン寛容令」を発してユグノーの城壁外及び屋内での礼拝を容認した。しかし、同年三月一日ギーズ公がヴァシー村Vassy(シャンパーニュ地方)で開かれていたユグノー派の日曜礼拝を襲撃して七四人を殺害し、一〇四人を負傷させる事件(死者三〇人・負傷者一二〇人や、死者六〇人・負傷者二五〇人という異説あり)を起こしたことが、ユグノー戦争Guerres de religion (一五六二 ~九八)の戦端を開くことにつながった。  一方、フランス王国では一五四七年三月三一日、フランス=ルネサンスに巨大な足跡を残したフランソワ一世がついに身罷った。そして、一五世紀半ばから一六世紀前半にかけて強大化した王権は、彼の死とともに一旦後退期に入る。フランソワ一世から王位を継承したのは、第二王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワであった。そしてこのアンリ二世Henri II(在位一五四七~五九)と結ばれたのが、ユグノー戦争の中心人物の一人となるカトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis(伊語Caterina di Lorenzo de' Medici)であった。 註㉕ ユグノー戦争は、第一次戦争(一五六二年三月~六三年三月アンボワーズ勅令)、第二次戦争(一五六七年九月~六八年三月ロンジュモー和議)、第三次戦争(一五六八~七〇年サン・ジェルマン和議)、第四次戦争(一五七二~七三年ブーローニュ勅令)、第五次戦争(一五七四~七六年ボーリュー勅令)、第六次戦争(一五七六~七七年ベルジュラック和議・ポワティエ勅令)、第七次戦争(一五七九~八〇年ル・フレクス和議)、第八次戦争(一五八五~九八年ナント勅令・ヴェルヴァン和議)に区分される。  ところで、フランソワ二世の即位は、王妃の外戚に当たるカトリック貴族ギーズ家一門とユグノー派貴族ブルボン家の対立を表面化させた(註⑯)。即位式の翌日、王妃の伯父にあたるロレーヌ枢機卿やギーズ公フランソワは国王夫妻とともにルーヴル宮殿に入り、ユグノー派弾圧に着手した。一方、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌ(ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンAntoine de Bourbon, duc de Vendôme)やその弟コンデ公ルイ一世Louis Ier de Bourbon-Condéを盟主としたユグノー派は、ギーズ家打倒とブロワ城にいた国王の拉致を謀ったが、(弁護士ダヴィネルがロレーヌ枢機卿にその情報を漏らしたため)事前に露見してしまった。ギーズ家は、ユグノー派の動きを察知して宮廷をロワール渓谷のアンボワーズ城Amboiseへと移し、城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけて指導者ラ・ルノディー等を惨殺した。捕縛された一五〇〇人以上のユグノーたちは、宮廷人の目の前でそれぞれ絞首刑、斬首刑、車裂の刑に処され、見せしめとして晒されたという(一五六〇年三月、アンボワーズ陰謀事件 la Conjuration d'Amboise)。 世に反対されたことに立腹し、翌年議会の協賛を得て国王至上法(首長法)Act of Supremacyを定め、国王を最高の長とするイングランド国教会Church of Englandを成立させた。その後、一五三六年、三九年には修道院を解散させ、ローマ派教会や修道院の土地・財産を没収してジェントリ(郷紳)gentryに売却している。ヘンリ八世は、再婚した王妃アン・ブーリンAnne Boleyn(エリザベス一世の生母)を反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪でロンドン塔に幽閉したうえ斬首刑とした(一五三六年五月一九日)後、3度目の結婚相手に選んだのが前の二人の王妃に仕えていたジェーン・シーモアJane Seymour(エドワード六世の生母。産褥死)という女性であった。ヘンリ八世はその後も、アン・オブ・クレーヴズAnne of Cleves(一五四〇年結婚、同年離婚)、キャサリン・ハワードKatherine Howard(アン・ブーリンの従姉妹、一五四〇年結婚、一五四二年離婚・刑死)、キャサリン・パーCatherine Parr(一五四三年結婚)と続けて不幸な結婚を繰り返す。そして、シーモア家はジェーンが唯一の嫡子エドワードを産んだことで王室に深く関与することに成功する。 « 2014年東京大学入試 世界史解答例 | 註② 羽野幸春ほか『新倫理資料 改訂版』(実教出版)一三九頁より引用。ピコ・デラ・ミランドラGiovanni Pico della Mirandola(一四六三~九四) 『人間の尊厳について』(創元社)参照。  一五四一年九月一三日、カルヴァンは再びジュネーヴに呼び戻された。ジュネーヴでは、カルヴァン以外にこの難局を切り抜けることができる人物はいない、との意見が他を圧倒したのである。しかし、カルヴァンはジュネーヴでの仕事を再び一からやり直さなければならなかった。前回同様、まずは教会諸規定を整え(一一月公布)、カテキズムを用意することから始めた。彼が再建した教会組織の最高責任者は牧師であり、一人の牧師以上の権威を持つことができたのは毎週開かれる牧師会のみであった(そこでは聖書の共同研究がなされた)。また、市会によって選出された一二名の長老たちは、牧師五名とともに長老会(コンシストワールconsistoire)を構成して教会員の信仰生活の規律を厳守させるとともに、長老会内部の誤りを是正する機能をも果たした。長老は教会内部の職だから本来であれば信徒間の選挙で選ばれるべきだが、カルヴァンたちの教会は未だ都市国家ジュネーヴの政治的権力から完全には分離できていなかったため、長老は市会によって選出されたのである。しかし、長老が教会内では牧師と同格の存在となり、 以前なら牧師のみが行い得た霊的指導という権能を持ったことの意義は大きい。牧師と長老がともに協力して、キリストの権威を鮮やかに浮かび上がらせるように教会の秩序を整える体制が誕生したのである。そして、司教制の廃止と長老制の導入は、宗教改革と政治的独立を結びつけることとなった。註⑦ *文中の地図は林田伸一「近世のフランス」(『新版世界各国史⒓ フランス史』所収第四論文、山川出版社) から複写し、写真は筆者が撮影したものである。, Email Address:  (一)宗教的融和策と戦争勃発  カルヴァンが取り組んだ第三の改革は、「信仰教育」である。信仰とはまさしく心情に根ざすものではあるが、感情的にただ「ありがたがる」ことではない。宗教改革者が掲げた信仰とは、「あなたまかせの無自覚さをしりぞけた、きわめて主体的で、自己自身の存在の問題を深くとらえた、確乎とした認識(知識)」である(渡辺信夫著『カルヴァン』六三~六四頁)。彼等はキリストの「御言葉」を教えられ(聞き)、それを受け入れる決断をすることによって信仰が始まると考えた。カルヴァンは、一五三七年二月、信仰教育に用いる教程「信仰の手引き」(第一回カテキズムcatechism)を作成している。そして第四の改革は、カトリック教会の教会法によって規定されてきた「結婚」観を排し、新たなる倫理規範を構築することであった。宗教改革者の多くは結婚をしているが、カルヴァン自身も一五四〇年八月に子連れの未亡人イドレット・ド・ビュルIdelette de Bureと結婚している。彼女とその夫(病死)はフランスから逃れてきた再洗礼派(アナバプテストAnabaptist 註⑥)であったが、カルヴァンの指導で再洗礼派から離れていた。夫と死別したイドレットの中に純粋な信仰心と優れた家政能力を認めたカルヴァンは、まさに市民的感覚をもって結婚に踏み切ったと言われている。もっとも、一五四二年七月二八日に誕生した長男は間もなく亡くなり、妻イドレットも一五四九年三月二九日に没している。以上の改革四項目が一五三七年一月、「ジュネーヴ教会教会規則」としてまとめられ、 同年四月に成立した「ジュネーヴ教会信仰告白」では「第一にわれわれは明言する。われわれは、己が信仰と宗教の規範として、聖書―すなわち、神の言葉によらずして人間の知恵が考え出した如何なるものも混じておらぬ聖書にのみ従いたいと決意するものである」と徹底した聖書主義を表明している。, (四)ジュネーヴ市会との対立  ところでサン・バルテルミ事件以後、ユグノー派は北部やロワール川流域において多くの亡命者や改宗者を出したが、この頃、宗教戦争は新しい段階に突入していた。従来のユグノー派は「礼拝の自由」が保障されることを願って王権を尊重してきたが、サン・バルテルミ事件という残虐な裏切り行為を知ったいまとなっては、王権に対する淡い期待も失われてしまったからである。ユグノーとして残った人々の中には『フランコ・ガリア』の著者オットマンHotmanのように「暴君放伐論」monarchomachia(人民は暴君に服従する義務はなく、その殺害も許されるとする反君主制理論)を主張する過激派も現れ、彼らは密かにカトリーヌの末子アランソン公フランソワHercule Françoisに接近し、一五七四年二月、ナヴァール王やコンデ公を宮廷から奪還しようとして失敗している。ほぼ同じ頃、北西部のバス・ノルマンディやポワトゥー、南部のローヌ渓谷などでもユグノー派が蜂起している。一方、パリなど大都市の内部では、都市商人層や高等法院官僚などを中心とするカトリック穏健派の間に新旧両派の融和を模索する集団(ポリティーク派Politiques)が台頭し、宗教問題よりも政治的配慮を優先する主張を展開して次第にギーズ家一門と対立するようになった。同年九月、アランソン公が宮廷から脱出してポリティーク派に加わり、東からはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンJohn I, Count Palatine of Zweibrückenがシャンパーニュ地方に侵入してきた。そして一一月には、ポリティーク派のラングドック地方総督アンリ・ド・ダンヴィル(モンモランシ大元帥の次男)が南仏のユグノー派と結託して王室に反旗を翻したため、フランス国内は大混乱に陥った。 註㉒ 久保正幡訳『サリカ法典』(創文社)一五八~一六〇頁参照  一方、 仏王フランソワ一世は、一五二九年のカンブレー和議後は再びプロテスタントの迫害に転じ、 一五三三年(カルヴァン「回心」の年)に教皇クレメンス七世とマルセイユ協定を結んで異端撲滅を約束したことは先に見たとおりである。パリ大学総長ニコラス・コップの福音主義的演述が異端と断罪され、コップやカルヴァンがパリから逃げ出したのは、フランソワ一世がマルセイユ協定を即座に実行に移したからであった。しかし僅か三カ月後にはフランスとドイツ=プロテスタント諸侯との秘密同盟が成立したため迫害停止に変更し、一五三四年一〇月の檄文事件後の約一カ月に及ぶ激しい弾圧の後も三度目の寛容策を採用するなど、その新教徒対策は猫の目のようにめまぐるしく変化した。フランソワ一世はドイツ=プロテスタントの離反を恐れてプロテスタントに対する弾圧を中止し、デ・ベレの献言を容れてメランヒトンMelanchthonやブーツァーをフランスに招こうとしただけでなく、プロテスタントに好意的なアントワーヌ・デュプラ Antoineduprat Chancellierを大法官に任命し、亡命者を帰国させるための「寛容令」さえ発している。そして彼は、フランスにおける新教徒取り締まりは謀反を企てている騒擾者(具体的には再洗礼派)の掃討が目的であると宣伝していた。 註㉖ Fernand Braudel, “LA MÉDITERRANÉEE et le monde méditerranéen à l'époque de Philippe III”Armand Colin, Deuxième édition revue et corrigée, 1966.  彼女は、一五一九年四月一三日、イタリアのフィレンツェFirenzeでウルビーノ公ロレンツォ二世・デ・メディチLorenzo di Piero de 'Medici(ロレンツォ・デ・メディチの孫)とオーヴェルニュ伯ジャン三世Jean de La Tour d'Auvergneの娘マドレーヌとの間に生まれた。父ロレンツォ二世は叔父の教皇レオ一〇世(在位一五一三~二一)によってウルビーノ公Urbinoに叙されたが、彼の亡き後はその称号を剥奪された。母マドレーヌはカトリーヌを出産するとまもなく黒死病に罹って亡くなり、一五一九年には父ロレンツォ二  ところで、英仏百年戦争が終結した一五世紀半ば頃、大所領を持つ有力家系の貴族=領主層は王・諸侯からそれ相応の官職を得て俸給を確保し、所領支配の安堵を受けるようになった。彼らは新たな役人集団officiersを結成し、貴族・上層都市民双方の出身者からなる「名士」notablesと呼ばれる集団を構成するようになる。貴族=領主層の官職貴族(廷臣)化の動きは、国王への権力集中をもたらすことになるが、 一六世紀後半の宗教戦争期には「売官制」vénalité des officesの広がりと法服貴族の台頭で変化に拍車がかかった。中世以来、貴族とは家柄の古さと名誉を重んじ、血を通してのみ継承される特別な家門を指したが、この頃には貴族身分を新たに入手することが可能となった。すなわち、国王が特別な勲功をあげた臣下に対して貴族叙任状を付与したり、富裕な都市民が国王官職や都市の役職に就くことによって貴族身分を獲得する途が開かれたのである。一六世紀前半には既に国王官職を売却して戦費調達にあてる国王がいたが、同世紀後半にはその動きがいっそう強まった。一五七五年から八八年までの間にルーアン高等法院評定官職の価格が二倍に跳ね上がったように、官職価格の高騰はユグノー戦争期間中が特に著しい。そうなると地方の小貴族では入手が困難となり、これらの官職を購入したのは都市の富裕市民であった。こうして中世騎士の流れをくむ伝統的貴族(「帯剣貴族」)と官職売買をとおしてその身分を入手した「法服貴族」が併存することになり、後者の中には国家の政務を扱う国務会議に席を占める者までいた(一六世紀後半には法服貴族の間でも官職の世襲化が進み、官職の売買も増えた)。 IV, Cambrige, at the University Press, 967, p.470.  第1条 第一に、一五八五年三月初め以来余の即位に至る間、さらには、それに先立つ騒乱の間に、各地に生     そして、コリニー提督狙撃事件の二日後にあたるサン・バルテルミSaint-Barthélemyの祝日(八月二四日)の朝四時頃、ユグノー派による報復を怖れたギーズ公アンリ、その伯父オーマール公とアングレームの私生児アンリ等が大勢の兵士を率いてコリニー提督の宿舎を襲撃した。提督はチェコ人ジャン・シマノヴィッチ(ベーメン出身であるためベームと呼ばれていた)の猟槍で突き刺され、窓の外に放り投げられた。瀕死の提督はトッシーニという男によってとどめを刺され、ヌヴェール公の従僕ペトルッチが首を切ってルーヴル宮殿に運び込んだ。ところが、「どぶ板の私生児たち」(ジュール・ミシュレJules Michelet)が死骸に飛びかかって切り刻み、セーヌ河岸まで引きずっていった。その後、血に飢えた民衆が遺体を引き取ってモンフォーコンMontfauconの死刑台に吊り下げ、その下で火を焚いて歓喜の声を上げたという。コリニー提督の死を確認したカトリーヌは、サン・ジェルマン・ローセロワ教会St-Germain l'Auxerroisの鐘を乱打させた。そして、この鐘の音が合図となって大規模な民衆暴動が発生し、国王派兵士とカトリック市民はユグノー派の貴族や市民たちを男女のみさかいなく、そして子どもまでをも惨殺したのである。パリの都市機能はほぼ崩壊し、市民たちの憎しみの感情はユグノーという宗派だけでなく、 ユグノー派貴族層の「豊かさ」に対しても向けられていた。彼等にとっては、帯剣貴族や法服貴族、商業資本家の区別は意味をなさず、ただ単にユグノー派という「貴族階級」に見えたのである。一五七二年当時のパリは、貨幣価値が下落して物価上昇が続き、夜ともなれば夜盗が横行する無法地帯と化していた。多くの浮浪者、乞食、荒んだ生活を強いられていた労務者、盗人たちにとって、物質的繁栄を「神の好意の表れ」とみなして謳歌していたユグノー派は許すことの出来ない存在でしかなかった。パリにおける虐殺は約一週間続き、約三〇〇〇人前後が犠牲者となった。その後、殺戮の嵐はフランス全土に吹き荒れ、秋までに一万人を超えるユグノーが殺害されたと言われる。  しかし、カルヴァンの教会諸規定に基づく要求が、放蕩に明け暮れていたジュネーヴ市民にとっては些か厳しすぎたようである。カルヴァンの厳しい態度に反発したリベルタンはわざと教会に反抗したが、教会側は市当局を動かして力で抑圧しようとした。例えば、トランプ作りのアモーは公衆の面前で謝罪させられたうえ罰金を払わされ、旧約聖書「雅歌」を聖書正典と認めなかったセバスティアン・カステリオンSebastian Castellioというサヴォイア人は一五四四年に追放処分を受けた。また、有力者フランシス・フェーブルFrancis Favreを後ろ楯に抵抗した軍司令官アミ・ペランAmi Prinは投獄され、一五五〇年にはジュネーヴから逃走した。さらには、自由恋愛主義を標榜していた都市貴族ジャック・グリュエJacques Gruetは瀆神と無神論のかどで処刑され(一五四七年)、仏人ジャン・ボルセックJean Bolsecはカルヴァンの予定説を攻撃したこと理由に追放の憂き目を味わっている(一五五一年)。リベルタンにとっては、こうした教会側の強権的態度こそが(フランス人亡命者カルヴァンによる)ジュネーヴの自由・独立に対する侵害と映ったようである。そこで自由主義者たちは暴動を起こしたが、カルヴァン等も聖餐停止処分で対抗した。その当時、ジュネーヴ教会はツヴィングリの後継者ブリンガーJohann Heinrich Bullinger(一五〇四~七五)率いるチューリヒ教会との間で「聖餐」に関する理解で一致を見たばかりであった(一五四九年チューリヒ協定)が、教会側の聖餐停止処分がまたしても市民を二分する結果となった。そして、一五四九年、当時の市会はまだリベルタンが主導権を握っていたが、翌年のアミ・ペラン逃亡以後は改革派が優勢となった。註⑧, (六)宗教改革と予定説  ところが一五三八年春、ファレルやカルヴァンとジュネーヴ市会とが衝突し、ジュネーヴにおける宗教改革は一時頓挫した。その原因は二つある。第一に、カルヴァンが作成した「信仰告白」は市会の承認を得て全市民に強制されることになったが、有力市民たちで構成されていたリベルタン(自由主義者)libertinが激しく抵抗し、信仰告白の宣誓を拒否する者が続出したからである。これに対してカルヴァンたちは市当局にリベルタン追放を要求し、両者の対立は決定的となった。そして第二の原因は、教会とジュネーヴ市会の関係をめぐる対立であった。その当時、宗教改革を推進していた政治家たちは、サヴォイア公国との繋がりを断ってスイス諸都市との連係を強めようと考えていたが、同じスイスの都市ベルンBernから宗教改革の形式面での統一を図りたいとの申し入れがあり、ジュネーヴ市会はそれを受け入れていた。ベルンの形式はジュネーヴのそれよりもかなり保守的で、聖餐式に使うパンはカトリック教会と同じくパン種を入れない円い薄い堅焼きパン(ホスティアhostia)であり、教会堂の中には洗礼盤を復活させる必要があった(洗礼盤は偶像破壊の際に取り払われていた)。また教会の祝日も、日曜日と受難週(カトリック教の聖週間。棕櫚の主日から復活祭の前日までの一週間)、復活節(復活祭から聖霊降臨祭までの五〇日間)だけでなく、ファレルが廃止したクリスマス、新年、受胎告知日、キリスト昇天日を守らなければならないとしていた。宗教改革者たちにとって、それらの申し入れ内容に反対すべき項目はなかったが、「ジュネーヴ政府からの要請によって教会の形式を変更する」ことは絶対に容認できなかった。カルヴァンたちは春の復活節に予定されていた聖餐式を取りやめ、市会はそれに対抗して牧師たちの説教を禁じた。しかし、カルヴァンたちは死を覚悟して説教を続けたため、市側はついにカルヴァン、ファレル、そして盲人牧師クローの三人を追放したのであった(一五三八年四月)。三人はひとまずバーゼルに滞在し、ファレルはヌーシャテルNeuchâtelへ、クローはローザンヌへと向かい、生涯を彼の地で過ごすことになる。 註⑥ 再洗礼派(アナバプテストAnabaptist)はツヴィングリ派の中の急進派であったが、一五二五年に分離した。教理的特徴の一つは、幼児洗礼を否定して、成人の信仰告白に基づくバプテスマ(成人洗礼)baptismaを認めることにあり、幼児洗礼者にバプテスマを授けることがあるため再洗礼派と呼ばれる。カトリック教会だけでなく他のプロテスタント勢力からも迫害を受け、改革派からはウェストミンスター教会会議で排斥され、ルター派からは和協信条(一五七七年)などにより異端とされた。ドイツのミュンスターMünsterではB・ロートマンBernhard Rothmannの説教に応えてネーデルラントの再洗礼派が結集し、一五三四年、再洗礼派の神聖共同体、すなわち私的所有と貨幣を否定する「新しきイェルサレム」を出現させた(指導者ライデンのヤンJan van Leiden)。この神政独裁は翌年瓦解した。近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史16』所収第一論文)三七頁参照。  同年、カルヴァンはジュネーヴ教会の牧師となり、サン=ピエール教会で説教を開始した。当時、ジュネーヴには偶像破壊で飾りを削ぎ落とされた殺風景な教会堂があるのみで、教会組織や礼拝の様式はまだ確定していなかった。カルヴァンは教会組織の再建に当たって、さまざまな改革に乗り出した。第一に「規律」を要求し、そのためには信徒の間から信仰の模範となり、指導者たりうる長老たちを選出し、彼等に教会運営の一部を委ねたのである。第二に殺風景な礼拝を心豊かにするため「讃美歌」を重視した。彼は「神はわがやぐら」Ein' feste Burg ist unser Gott(現行讃美歌二六七番)を作詞・作曲したルターほどではないが、詩人クレマン・マローClément Marotが作詞した「詩編歌集」やテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeの訳詞を大切にし、無伴奏で歌わせた。ジュネーヴ詩編歌はフランスのユグノー詩編歌となり、やがて一七世紀のオランダや北ドイツでオルガン音楽を発展させる礎となっていく。  この「自由意志論」を継承したのが、ルターと同時代に生きたヒューマニスト(人文主義者)のエラスムスErasmus(蘭、一四六九~一五三六)である。一五二四年、 エラスムスは『自由意志論』De lebero Arbitrioのなかで自由意志の役割を肯定し、人間の努力によって救済が神から与えられることを認めなければ一切の道徳が成立しないと主張した。したがって、ピコやエラスムスの自由意志論は、アウグスティヌス以来の系譜を引き継ぐものであった。ところが翌二五年、ルターはエラスムスの考えを真っ向から否定する『奴隷意志論』Deservo Arbitrioを発表し、救済はあくまでも神の恩寵によるものであり、自由意志は全く無力だと断言した。人間の運命は神に予定されており、自由意志に基づく努力によって何かになれると考えるのは神に対する冒涜に他ならない、としたのである。この論争の発端はノエル・ベダを中心とするパリ大学神学部がエラスムスに圧力をかけてルター批判を行わせたことに端を発するが、両者の相互批判は互いの誤解も手伝って水掛け論に終始した。註③  しかし、国王の妥協に反発したギーズ公アンリは、一五七六年六月八日、親族のマイエンヌ公シャルルCharles (II) de Lorraine, duc de Mayenne、オマール公シャルルAumale、エルブフ公シャルルCharles Ier de Lorraine-Guise, duc d'Elbeuf、メルクール公フィリップ・エマニュエルPhilippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre、ロレーヌ公シャルル三世Charles IIIとともに「聖なるキリスト教同盟」(所謂「カトリック同盟」La ligue catholique)を結成して広大な領域を支配し、都市中間層の支持を集めることにも成功した。その結果、国王アンリ三世はやむなくブロワ三部会でカトリック同盟の要求を受け容れ、ボーリュー勅令はあえなく骨抜きとされた。同年一二月には、ユグノー派がポワトゥーやギュイエンヌで武装蜂起したが、この時は王弟アンジュー公フランソワ(元アランソン公)やダンヴィル伯のようなポリティーク派もカトリック同盟側に与しており、ユグノー派は全く不利な情勢にあった。結局、屈服したユグノー派は「ベルジュラック協定」Bergeracを結び、ボーリュー勅令で獲得した権利を全て失ったのである(その六日後、アンリ三世はその内容を確認し、「ポワティエ勅令」Poitiersを発した)。なお、 一五七九年一一月にコンデ公アンリ率いるユグノー派軍がカトリック同盟の拠点ラ・フェールを陥れて新たな戦いが始まったが、翌年一一月には「ル・フルクスの和議」が結ばれて停戦した。しかし、この妥協も四年間ほどしか維持できなかった。  ところで一五五五年以降、ジュネーヴ市民はおおむねカルヴァンの教えに信服するようになり、教会と市政当局との関係も格段に良い方向に変化していった。そのため、カルヴァンの関心は次第にヨーロッパ各地の宗教改革、とりわけ祖国フランスの改革へと向けられ始めた。カルヴァンが『キリスト教綱要』を最初に出版したのは一五三六年で、五年後の一五四一年にはそのフランス語版を刊行した。その後、版を重ねるたびにフランス語版も作られていることからも明らかなように、彼の意識からフランスが消え去ることはなかったものと思われる。しかし、当時のフランス=プロテスタントがおかれていた状況は、同じ新教徒であってもジュネーヴや神聖ローマ帝国のそれとは全く異なっていた。先ずドイツでは、ルター派教会が君主権に大きな役割を認めたために世俗権力間の宗教戦争が長く続いていた。アウクスブルク宗教和議Augsburger Reichs- und Religionsfrieden(一五五五年九月二五日)で宗教戦争が終結し、ルター派の信仰が許されたが、この「信仰の自由」は領邦国家や自由都市単位の自由であったために領邦教会制度の発達を促し、国家権力と教会の結びつきを強化する結果となった。その頃、カトリック教会側はトリエント公会議Trient(一五四五~六三年)を開催し、教皇至上主義を確認して結束を固めるとともに、新航路発見と結びついたイエズス会の布教活動で失地回復を果たしていた。こうした対抗宗教改革(反宗教改革)の動きに対して、ドイツにおけるプロテスタント陣営の旗色は悪かった。ルターの晩年は宗派内の論争が続き、彼は道徳不要論のヨーハン・アグリコラJohann Agricola(一四九九~一五六六)を追放し、メランヒトンさえ攻撃している。ルターの死(一五四六年)後は、メランヒトンを範としてプロテスタント諸派の間に平和をもたらそうとしたフィリップ派と、フラキウス・イリュリクスFracius Illyricus(一五二〇~七五)を指導者としてルターの教えの神髄を守ろうとした純正ルター派に分かれて対立するようになった。こうして、 ドイツにおける宗教改革は急速に硬直化し、 カルヴァン派との連携は可能性を失ってしまった。また、 ストラスブルクのブーツァーはカトリックとの和解を目指したが失敗し、一五四九年にカンタベリー大主教トマス・クランマーThomas Cranmer の招きでイングランドに渡った後は、エドワード六世時代の教会改革に携わっている(イングランド国教会は摂政サマセット公の影響で初めのうちはカルヴァン主義的傾向が顕著であった)。 フランス王家とローマ教皇は、次第に政治運動化しつつあったジャンセニスムを禁圧し、運動自体はフランス革命前には消滅したが、思想的な影響はその後も長く残った 。 フランス革命辺りから、啓蒙思想が台頭し宗教から距離を置く勢力が登場した。  ところで、宗教改革の開始以降、新旧両派がともに公会議の召集を模索していたのに対して、フランソワ一世やイングランド王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)は公会議開催によってドイツ国内の宗教的対立が解消することを危惧していた。一五三七年五月二三日に召集されたマントヴァ公会議Mantovaは、ドイツ国内のシュマルカルデン同盟Schmalkaldischer Bund(一五三〇年結成)が事前に公会議への招請を拒否し(同年二月二四日)、フランソワ一世も開催地が皇帝の勢力圏内にあることを理由に断ったため開催が不可能となった。しかし、独帝カール五世はプロテスタント側との和解を追求し、一五三八年、フランスとの間に「ニームNîmesの和議」を結んで、一時的な休戦を実現させた。ところが、スペイン=ヴェネツィア連合艦隊がオスマン帝国海軍に敗れて(一五三八年、プレヴェザPrevezaの戦い)恐怖のどん底に陥れられた神聖ローマ帝国では、皮肉にも新旧両派の対立を解消する絶好の機会が訪れた。一五四一年には、そのオスマン帝国が再びハンガリーへの侵攻を開始した。カール五世がレーゲンスブルクRegensburgで調停工作に乗り出したとき、教皇パウルス三世Paulus III(在位一五三四~四九 世界の大多数の人々が信仰するキリスト教には、カトリックとプロテスタントの二つの宗派が存在します。仏教が主な宗教である日本では、あまり馴染みが無く違いがよくわからない人も多いでしょう。今回は、そんなカトリックとプロテスタントの違いについてご紹介します。 註⑬ 仏王フランソワ一世は皇帝選挙資金として金貨四〇万エキュécu(一・五トン)を用意したが、ライバルの西王カルロス一世の選挙資金は金貨八五万グルデン(二トン)であった。後者の内訳はアウクスブルクの鉱山・金融業者フッガー家からの融資が五四万グルデンで、残りはヴェルザー家とヴェネツィア商人から調達したといわれる。そのうち四六万グルデンが七選帝侯(首席は債務に苦しんでいたマインツ大司教アルブレヒト)に渡った。カルロス一世は満場一致で神聖ローマ皇帝に選出され、ハプスブルク帝国が成立した。こうしてスペイン語・ドイツ語を解さないブルゴーニュ人シャルルは、一五二〇年、アーヘンで「ローマ人の王」として戴冠し、一五三〇年には教皇クレメンス七世をボローニャに招いて皇帝としての戴冠式を挙行したのである。これが教皇による神聖ローマ皇帝戴冠の最後となった。近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座 世界歴史⒗ 主権国家と啓蒙』所収論文)三二頁参照 ルイ14世の関心の一つは、国家の統一、特に宗教的統一の復活であった。カトリック教会を王の特権で保護し、教皇令を削除し(ガリア主義)、フランスのプロテスタントの家族に竜騎兵を派遣して苦しめ、彼らを迫害して改宗させた。 フランス:カトリック83-88%、プロテスタント2%、イスラム教5-10%、ユダヤ教1%、無宗教4% ドイツ:プロテスタント、カトリック各34%、イスラム教3.7%、その他・無宗教28.3%  その間、一五九〇年五月九日、ブルボン枢機卿シャルル一世が身罷った。一五九三年一月二六日、カトリック同盟のマイエンヌ公は新国王選出のための全国三部会をパリに招集した。西王フェリペ二世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをフランス王として送り込もうとしたが、パリ高等法院はこれに反対した。こうしたカトリック同盟側の足並みの乱れを突いたのがアンリ四世である。同年七月二六日、アンリ四世はサン=ドニ大聖堂Basilique de Saint-Denis でカトリックに改宗し、翌九四年二月二七7日にはパリ南西八〇キロにあるシャルトル大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Chartresにおいて戴冠式(成聖式)が執り行われた(戴冠式は伝統的にランス大聖堂で挙行するのが望ましいが、当時はカトリック同盟の影響下にあった)。こうしてカトリック教会はアンリ四世を拒むことが難しくなり、一五九四年三月二二日、王は念願のパリ入城を果たしたのである。また、この年の暮れにイエズス会クレルモン学院の学生による国王暗殺未遂事件が発生したため、翌年一月、カトリック教会はイエズス会をパリから追放し、一六日の聖職者会議では国王アンリ四世の即位を承認することになる。そしてパリ開城後、国内の都市の多くは国王に帰順するようになり、教皇クレメンス八世Clemens VIII(在位一五九二~一六〇五)もアンリ四世を赦免し、破門を取り消した。アンリ四世のパリ入城を可能にした要因の一つとしては、パリ市民の中にスペイン王国に対する恐怖心や、フランスの統一回復を期待したポリティーク派の勢いが増していたことなども挙げられる。  次に、 ルターやカルヴァンの教えに共通するものとして、「予定説」を挙げなければならない。人間の罪性と無力さへの深刻な自覚からは、人間の可能性に関する徹底した悲観的、絶望的教説しか生まれない。すなわち、人間存在そのものが罪を犯さざるを得ない宿命を持ち、人間の意志が悪だけしか欲することが出来ないとすれば、人間とは自己の救いについて何ら関与できない全く無価値の存在ということになる。ここから、ルターは「それゆえ、善行によってではなく、ただ信仰のみ」(信仰義認説)と考えたが、 カルヴァンはより徹底して「恩寵を信じることも、これに服従することもすべて神の意志にある」と判断した。したがってカルヴァンの考え方に従えば、救いに相応しい者になるか(恩寵を信じるか)、それとも救いを拒む者となるか(恩寵を信じないのか)という決定についても、人間の自主的判断が入り込む余地はない。カルヴァンの「絶対予定説」は、信徒が宿命論的怠惰や奴隷的無気力に安住することを許さず、厳しい禁欲的実践へと駆り立てる。何故なら、「あらゆる被造物はそれ自体のために存在するものではなく、神に属すものとしてその存在の全てを〈神の栄光〉の顕現のために捧げることが被造物である信徒の義務だ」と考えたからである。そして具体的には、「滅びの子の徴は、厳しい教会規律から脱落していくことである。救いに選ばれた保証は、日毎の実践における証しによって確証される」と受けとめたのである。 月二三日に「ロンジュモーLongjumeauの和議」を結び、アンボワーズ和解令の制限を撤廃してユグノーに対する「信仰の自由」を認めることになった。しかし、これを機にカトリーヌは宥和政策の破綻を認めてカトリック側に立つようになり、それまで宗教的融和策を推進してきた大法官ロピタルは罷免されて、ギーズ家一門が復権したのである。  ユグノー派軍は先ずラ・ロシェルを防衛するためにポワトゥーPoitouなどサントンジュ地方の諸都市を包囲し、アングレームAngoulêmeやコニャックCognacを攻撃した。しかし、一五六九年三月一六日、ジャルナックJarnacの戦いで領袖コンデ公ルイ一世が戦死し、やむを得ず息子アンリ(一五歳)を名目上の司令官として実際はコリニー提督が指揮を執ることになった。また、国王シャルル九世の権威に対抗するため、ナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレの息子アンリ・ド・ブルボン(一六歳)を指導者とした。その後、ユグノー派軍はラロシュ=ラベイユLa Roche-l'Abeilleの戦い(六月二五日)で勝利を収めたものの、 一〇月三日のモンコントゥールMoncontour(ブルターニュ地方)の戦いでは大敗を喫してしまう。やがてフランス南西部で体勢を建て直したユグノー派軍は、一五七〇年春にトゥールーズToulouse を陥落させてローヌ川沿いに北上し、パリから約二〇〇キロのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールLa Charite-sur-Loire まで迫った。しかし、ここで両軍は軍資金の問題もあって妥協し、八月八日「サン・ジェルマンの和議」を結んでいる。この和議では、ユグノー派の「信仰と礼拝の自由」についてアンボワーズ和解令(一五六三年)の線まで戻ったばかりでなく、ユグノー派に対してラ・ロシェル、モントーバン、ラ・シャリテ、コニャックという四都市を安全保障都市として認めるという画期的な譲歩がなされた。註⑳, (二)「サン・バルテルミの虐殺」と戦争の激化   じたる一切の事件は、起らざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。なお、検事総長その他、公人・私人を問わず、なにびとといえども、これらの事件に関し、いかなる時、いかなる機会にあっても、これを陳述・訴訟・訴追することは、いかなる裁判所におけるを問わず、これを認めない。 註㉔ 二宮宏之訳『西洋史料集成』(平凡社)より引用  ユグノー(フランス語: Huguenot)は、フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派。フランス絶対王政の形成維持と崩壊の両方に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて亡命先の経済を著しく発展させた。その活躍は、まずとびぬけてイギリスでみられたが、ドイツでは順当な規模であった。 ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。. )がいる。註① 彼自身フランス人であり、祖国のプロテスタント化に強い使命感を抱いていました。プロテスタントは大貴族層にも広まり、貴族の権力争いの影響もあって、16世紀後半のフランスはカトリック対プロテスタントの宗教戦争になります。 フィリップ・エルランジェ『聖バルテルミーの大虐殺』(白水社ドキュメンタリー フランス史)磯見辰典編訳七~三一頁参照  一六世紀前半、イングランド王国テューダー朝(一四八五~一六〇三年)では、第二代国王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)が国家主導で宗教改革を行い、カトリック世界からの自立を図っていた。しかし、元来の彼はルターの宗教改革に反対し、一五二一年には教皇レオ一〇世から「信仰擁護者」fidei defensorという称号を与えられたほどであった。ところが一五三三年、ヘンリ八世は王妃キャサリン・オブ・アラゴン Catherine of Aragon(メアリ一世の生母)との離婚を教皇クレメンス七  宗教改革でルターやカルヴァンが目指したのは、何と言っても「原始キリスト教」への復帰であった。したがって、彼等にとってイエス・キリストとは神に近い人間ではなく、人間となった神そのものである。そして信徒にとっての救いとは、すべて神からの恵みとしてもたらされるものだった。ところが、ルネサンス運動の根幹をなすユマニスム(ヒューマニズム)humanismeの影響を受けた人々の中には、キリスト教の根本的教義である三位一体説を否定する者がいた。その代表がスペイン人ミゲル・セルベトMiguel Serveto(一五一一~五三)である。彼は長年にわたって南仏のヴィエンヌ大司教Vienneの侍医として生計を立てていたが、一五五三年、『キリスト教の再建』で三位一体説を批判するとともに、 カルケドン信条(註⑨)や幼児洗礼を否定した。その後、逮捕されたセルベトは監視の目を盗んで逃亡し、同年八月、ジュネーヴに姿を現した。セルベトはジュネーヴにおけるリベルタンの情報を得ていたので、彼らが歓迎してくれるものと信じていたが、意に反して逮捕・起訴されてしまった。それでもセルベトの目論見では、無罪判決を勝ち取った後はカルヴァンに代わって自らジュネーヴにおける宗教改革の主導権を握るという強気の算段であった。そのとき、まだ市民権を持っていなかったカルヴァンはセルベトを告訴する権利がなかったが、彼の意を体した若者が告訴人となった。ジュネーヴ市会は最初のうちはこの裁判をどう処理していいか分からず、同盟関係にある周辺諸都市に問い合わせたところ、すべてカルヴァンを支持する返事が戻ってきた。その結果、セルベト裁判は(本人の予想とは全く相反する)焚刑という厳しい判決を下したのであった。その時、ファレルが死刑囚となったセルベトを慰めて、最後の悔い改めをさせるためにヌーシャテルから呼ばれた。ファレルは、「彼は胸を叩いて恵みを祈り、神に呼ばわり、キリストに祈りを捧げ、キリストを救い主、いなそれ以上のものとして認めた。けれども、かれはキリストのうちに、神の子を認めず、ただ時間のうちに生きる人間を認めるものであった」との記録を残している。死刑が執行された一〇月二七日、二人の市会議員を連れたカルヴァンがセルベトを訪ねたが、死刑囚は最後まで自らの考えを変えなかったという。また、カルヴァンのストラスブルク時代の学生で、後に仲違いしたセバスティアン・カステリオンSebastian Castellioは、マルティヌス・ベリウスMartinus Belliusという偽名で『異端者についてーかれらは迫害されるべきかどうか』(一五五四年)を著し、セルベト裁判におけるカルヴァンの態度を厳しく批判している。こうしてセルベト裁判は、カルヴァンが「神権政治」を行ったという後世の評価を決定づけた。しかし、(繰り返すが)カルヴァンは教会代表として教会の要望を市政に反映させようとはしたが、統治者とはならかった。一六世紀半ば、まもなく激化する「魔女狩り」の季節を前にして、断固として異端の存在を許さない彼の姿勢が神権政治と映ったのである。註⑩  「ナントの勅令」は、公布趣旨を謳った前文に続いて全文九二条項(四月一三日)が記載されている( それに先立つ四月三日の許可書、その後に作成された四月三〇日の秘密条項、五月二日の五六秘密条項も含まれる)。先ず前文では、武力と敵意が王国内から消え去り、平安と安息とが達成された現在、あらゆる問題の中で常に最も危険で浸透力のある宗教問題から起こる悪と騒乱の原因を除去するために、カトリックと改革宗教(ユグノー)側双方から寄せられた苦情を慎重に考慮して、普遍的にして明快、率直にして絶対的な法令を与えるべく、この永久にして撤回すべからざる勅令を通じて以下のごとく命令する、と述べられている。  ストラスブルクに招かれたカルヴァンは、(一旦バーゼルに戻るものの)マルチン・ブーツァーからの再要請で、あらためてこの都市に赴いたのは九月のことである。ストラスブルクはバーゼルからライン川沿いに下ったところにある古くからの「街道筋の町」で、 当時は自由都市であった。ここでも一五二四年から宗教改革が進められていたが、ルター派に同調することはなかった。宗教改革の中心にはブーツァーがおり、改革はヴォルフガング=カピト、カスパル・ヘディオ、マティアス・ツェル等の合議に基づいて進められていた。教会組織は一種の長老制を採用し、信徒の中から選ばれた教会執事が病人や貧者を助ける「愛のわざ」に従事していた。そして彼らがカルヴァンに求めたのはフランス人亡命者に対する牧師の役目であり、大学で講義を行うことであった。その間、カルヴァンは著作活動に励み、一五三九年には『キリスト教綱要』改訂第二版を出版し、『ローマ書注解』(一五四〇年出版)、『サドレト枢機卿への手紙』を書いている。また、カルヴァンは積極的に宗教会議に出席し、一五三九年のフランクフルト会議ではメランヒトンPhilipp Melanchthon(一四九七~一五六〇)と知り合い、一五四〇年にはハーゲナウ会議(七月)・ヴォルムス会議(一〇月)、そして一五四一年にはレーゲンスブルク会議に参加している。  以上のように、アンリ四世は、改革派信徒(ユグノー)の「信仰の自由」を保障し、(一定地域に限定はしたものの)公の「礼拝の自由」や、書籍の出版・販売を認めた。また、ユグノーがあらゆる地位・要職・官職・公務に就く権利も認めている。確かに「ナントの勅令」は新旧両派に完全平等の地位を与えたわけではないが、明らかに従来の寛容政策の枠を越えており、ながく続いた宗教戦争を終結させる力を持っていた。換言するならば、武力や論争では混迷したフランス王国の諸問題を解決することができないことが明らかとなり、新旧両派は現実的な政治レベルでの解決に身を委ねるしかなかったのである。一五九八年五月二日、フランス北部のピカルディ地方で結ばれたヴェルヴァン条約Vervinsによりユグノー戦争は終結の時を迎えることが出来た。西王フェリペ二世はこの条約締結によりカトー・カンブレジ条約(一五五九年)の時と同じ領土を仏王アンリ四世に認めることになり、やがて訪れるフランス絶対王政への出発点となったのである。註㉕, 終節 「繁栄の一六世紀」から「危機の一七世紀」へ  一五二一年、フランソワ一世はミラノ公国を支配していたスフォルツァ家Sforzaの追放に成功したが、皇帝カール五世が教皇レオ一〇世と結んでミラノを攻撃し、フランス軍は退却を余儀なくされた。しかし、一五二三年に即位した教皇クレメンス七世Clemens VII(在位一五二三~三四、レオ一〇世の従弟)は、フランス王と皇帝のどちらにつくかで揺れていた。そこで一五二五年、ドイツ農民戦争(一五二四~二五年)の混乱の隙を突くように、フランソワ一世が直接指揮するフランス軍がロンバルディア地方になだれ込んだ。しかし、スペイン=神聖ローマ帝国連合軍(ハプスブルク家)とパヴィア駐屯軍は小銃とピケpiqueを巧みに使用してフランス軍を撃退することに成功した(二月二四日パヴィアPaviaの戦い)。その時、かつてフランソワ一世に仕え、一五二三年神聖ローマ帝国に亡命していたブルボン公シャルル三世が、皇帝軍を指揮してフランソワ一世を捕虜にする活躍を見せた。註⑭ 第一節 カルヴァン主義とは何か(一)カルヴァンの生い立ち スイス宗教改革に名を残すジャン・カルヴァンJean Calvin(1509~64)は、一五〇九年七月一〇日、北フランスの小さな町ノワイヨンNoyonで生まれた。  一五六三年七月、カトリーヌは新旧両派の軍隊を派遣してイングランド軍に占領されていたル・アーヴルの奪還に成功した。そして翌月一七日、ルーアン高等法院はシャルル九世の成人を宣言し、カトリーヌの摂政は終了した。しかし、彼女は国政を主導し続け、一五六四年一月以降に行われた国王の国内巡幸(~一五六五年五月)に同行して王権回復に努めている。巡幸の途中、カトリーヌはブルゴーニュ地方のマコンMâconとアキテーヌ地方のネラックNéracと二度にわたってナヴァール王アントワーヌの未亡人ジャンヌ・ダンブレ Jeanne d'Albret(ナヴァール女王フアナ三世Juana III de Navarra、ユグノー派)と会見し、一五六五年二月にはスペイン国境付近のバイヨンヌBayonneにおいて娘エリザベートや西王フェリペ二世の首席顧問アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドFernando Álvarez de Toledo, Duque de Albaと会っている。しかし、カトリーヌが熱烈なカトリック信者フェリペ二世の顧問と会ったことや、国王シャルル九世がフランドル地方における旧教勢力を支援したことが、ユグノー派に危機感を募らせることとなった。註⑱